2020-09-27

『秘密の花園』再読

『秘密の花園』

作者はフランシス・ホジソン・バーネット(1849-1924)、昔一度読んでいますが、小学生の頃というだけで、何歳のときだったのかは覚えていません。学校の図書館で借りました。同じ頃に同じ作者の『小公女』と『小公子』も読んでいます。

今回読んだのは2006年に出た西村書店の完訳版で、訳は野沢佳織さん、グラハム・ラストの繊細で美しいカラーイラストが何点も入っています。


昔、読んだ版は、検索した表紙の画像と刊行年から判断して、たぶんポプラ社の世界名作童話全集に入っていた岡上鈴江編訳『ひみつの花園』です。岡上鈴江は童話作家の小川未明の娘さん。今回読んだ完訳版が354頁なのにたいして『ひみつの花園』は157頁しかなく、活字も大きかったはずなので、相当にカットされていたのだとわかりました。


以下あらすじです(ネタバレご注意)。


 メアリは父の赴任先のインドで暮らしていたとき、両親がともに伝染病で亡くなり、孤児となって、イギリスのヨークシャーにある広大な屋敷に住む、会ったこともないおじに引き取られます。
 おじのクレイヴン氏は10年前に愛する妻を亡くした悲しみから立ち直れず、また、妻にそっくりの顔立ちをした病弱な息子のコリンを避けて、1年の大半を海外で過ごしています。妻が死んだあと、彼女が大事に世話していた庭も、扉を閉じて鍵を隠し、封印してしまいました。そして誰も近づかぬようにと命じます。
 インドにいた頃、メアリの両親は仕事や付き合いに忙しく、彼女の世話は使用人に任されていて、いつも暗い顔をしたわがままな娘に育ちました。メアリは知った人のいないヨークシャーの屋敷で何もすることがなく、時間をもてあまして庭を歩き回るうち、閉ざされて久しい秘密の庭に入る扉と鍵を偶然見つけます。彼女はその庭に入ると、みんなに内緒でここに花を咲かせようと思い立ち、彼女の世話係であるメイドのマーサの弟ディコンの助けを借りて、庭道具と花の種や球根を用意してもらいます。そうして庭仕事に励むうち、最初は気難し屋だったメアリが、しだいに明るく元気な娘へと変わっていきます。
 一方、コリンは母を亡くしたあと、父に見向きもされず、自室に閉じこもって孤独に暮らすうち、心も体も病んでしまい、自分はもうすぐ死ぬのだと思い込んで一日中ベッドで寝て過ごし、泣き暮らしていました。メアリはその泣き声を聞きつけ、広い屋敷を探し回って、いとこのコリンの部屋を見つけます。同年代同士、ふたりはすぐに打ち解けて仲良くなり、メアリと話をするうちにコリンに明るさが戻ってきます。やがてコリンも車椅子を使って外に出て、庭造りに加わるようになります。そのうち魔法が働いて、コリンもすっかり健康を取り戻し、体も丈夫になり、車椅子を使わずに歩けるようになりました。
 ディコンの母親のスーザンはコリンが元気になったのを見ると、クレイヴン氏に手紙を書いて、すぐに屋敷に帰ってきてほしいと伝えます。屋敷に戻ったクレイヴン氏は美しく蘇った庭と健康になった息子の姿を見て、喜びに胸を震わせるのでした。

今回、読んでみて、こんなにも魔法や奇跡を強調した、ファンタジー色の強い話だったのかと、驚きました。

完訳版は、小学生の頃に読んだとしたら、少し長いと感じたかもしれません。簡略版は子供向けに物語のハイライトを上手にまとめてあって、だからこそ面白かった記憶がずっと残っていたのだと思いますが、完訳版を読むと、深みのある物語だとわかります。


領主と使用人の関係がこれほど良好なことは実際には珍しいだろうし、子供を叱る大人がひとりも出てこないのは不自然だし、そこからしてすでに奇跡、そもそも妻が死んだあと、悲しみのあまり家も息子もほったらかしで10年間も放浪している父親なんて、ナイーブすぎないかと、大人の私は思います。ですが、昔読んだときはそんなところで引っかかったりせず、庭が蘇るにとともにメアリとコリンが再生していくすてきな物語に、どっぷり浸っていたはずです。


だとしたら、大人の私も童心に帰って、現実的な矛盾点は忘れて、物語に浸るのがふさわしい読み方でしょう。魔法の世界に浸ろうといったん決めたら、あとはわくわくしながら夢中で読みました 動物の言葉がわかるという魔法使いのようなディコンが、この物語ではとても重要な役割を果たしています。メアリとコリンは庭仕事に精を出すことで、しだいに心身ともに健康になっていきますが、それはヒースの荒れ野でのびのび育ち、すべてをありのままに受け入れてくれる、大人びたディコンの助けがあったからこそ。教訓じみたところがなく、メアリとコリンが自分の意思で屋敷の外に出ていき、人のあたたかさや自然の美しさに触れるうちに本来の自分を取り戻していくという設定も、この作品を好きになった大きなポイントのひとつだったと、改めて気づきました。


『秘密の花園』はアニメにもなっていたんですね。今回調べ物をしていて知りました。

2020-09-21

こんなふうに翻訳しています(機械編)

最近は原書を読むときも翻訳するときも、たいていキンドル版かPDFファイルをPC画面で拡大表示して作業しています。おかげで、小さい文字を読み間違えることによる思い込みや勘違いがぐっと減りました。

翻訳するときは画面左上に原書、その下にテキストエディタのJeditを開き、画面右にWebブラウザと辞書ソフトのLogophileを開いて作業します。リーディングの際は、これに加えてMacのメモアプリ、スティッキーズを使って固有名詞やあらすじをメモしていきます。以前は原書を読みながらノートに手書きでメモしていて、この作業にずいぶん時間がかかっていましたが、キーボードで入力するようになって、時間が大幅に短縮できました。原書は数行ずつ表示します。そのほうが視線が移動したあとですぐに元の場所に戻れて、効率的です。


昔、ブラウン管のiMacを使っていた頃、平日の4日間、超特急のニュース記事翻訳をしていた時期がありました。その最中に機械が故障して、修理してくれる秋葉原のお店までタクシーに乗ってiMacを運んだことがあります。1日預けて帰りは宅配してもらったのですが、それに懲りて、そのあと2台続けて、手軽に運べるノートパソコンに変えました。ノートパソコンはコンパクトで場所を取らないので机を広々と使えますが、翻訳作業をスムーズに進めるには少し画面が小さすぎました。それに、画面が下にあるため、やや下向きの前傾姿勢が続くことになり、それも次第につらくなってきました。


そういう経緯を経て、7年前にMac mini23インチ液晶ディスプレイという現在の環境に変えたのですが、それ以降、作業能率は格段に向上しました。最近、翻訳者のデスクにディスプレイが2台並んでいる画像をよく拝見するようになり、私ももう1台増やそうかと検討したこともありましたが、この先、本体を買い換えることはあっても、ディスプレイを増やすことはもうなさそうです。


2020-09-17

「フェミニストのテキスト講座」文献邦訳リストを作りました

2020年6月刊行のステファニー・スタール著『読書する女たち』(イースト・プレス)に関して、本文で紹介している著作物のうち、邦訳のあるものをリストしてほしいという読者様のご要望を拝見しました。リストがあれば、読書の参考にしていただけるのではと思い、許可を得て、こちらに公開しました。

見つけられるかぎり最新の訳の邦題を掲載しましたが、漏れや誤りがありましたら、お手数ですが連絡フォームよりお知らせください。

長年の目標を半分達成

今週は週のはじめに立ち寄った書店で、最新訳書『読書する女たち』が外国文学の棚に並んでいるのを偶然見つけ、その喜びをかみしめて過ごしています。いつかここに並ぶ本を訳したいと、ずっと目標にしていた憧れの棚です。


最初にこの本のリーディングの仕事を紹介してくださったあと残念なことに急逝された翻訳学校時代の恩師にも、訳者として採用してくださったイースト・プレスの編集者様にも、感謝しかありません。


産業翻訳をしていた頃は比較的順調に翻訳道を歩んできたのに、出版翻訳に移ってから何度かつまづいて、向かないのかもしれないと途中で諦めかけましたが、続けてきてよかったです。


つぎは外国文学棚に並ぶ小説を訳すことを目標にがんばります。 

2020-09-14

ノンフィクション翻訳からフィクション翻訳へ

著名な文芸翻訳家の方たちの御訳業を拝見すると、みなさん得意とされているジャンルをお持ちです。同じジャンルの作品をずっと訳し続けていれば相性の合わない作品も、超難解な作品もあるだろうし、根気のいる、大変なことだと思います。これと決めたジャンルのどんな作品にも食らいついていくくらいの覚悟がないと、小説の翻訳はできないのかもしれないと、うすうす感じてはいます。小さい頃、手当たり次第に児童書を読みあさったとか、若い頃からミステリーばかり多読してきたという方がたくさんいらっしゃる中での競争です。私など最初から勝ち目はありません。それでも、私も最初に翻訳家を目指したきっかけが小説だったものですから、いまだに、いつかまた小説を訳したいという気持ちを棄てられずにいます。


問題はどのジャンルをやりたいのかです。


二十数年前、しばらく続けた産業翻訳から出版翻訳に足場を移すにあたって、まずノンフィクションから入りました。産業翻訳の延長線上にあって心理的な垣根が低かったからです。ノンフィクションの書籍翻訳ではとくに専門知識のない翻訳者にもいろんな分野の仕事が回ってくるので、そのたびに勉強しなければならず、幅広い知識に触れることになって、それが楽しくもあり、大変でもあり、おおいにやりがいを感じてしばらく続けてきました。ですが、10年ほど前から急に、胸を打つ感動作や強く印象に残る作品、ちょっとおかしな話、要するに物語を訳したいと思うようになりました。


フィクションの翻訳家を目指すにあたっては、やりたいジャンルが決まっていたほうが、その先ものごとがスムーズに進むに違いありません。ですが、どのジャンルを見ても、そのジャンルに集まる方たちの熱量がすごすぎて、なかなか足を踏み込めずにいます。どのジャンルにも好きな作品はあるのですが、熱意が足りず、特定ジャンルに深くのめり込めないのかもしれません。


そんなこんなで迷っていたら、一般文芸という、ジャンルを超越した言葉に出会いました。一般文芸がどの辺りの作品を指すのか、正直まだよくわかっていません。エッセイなど、ノンフィクションも一部含まれるのではと思います。が、とりあえず残り少なくなった人生、ジャンルを特定せずに文芸翻訳家を目指してがんばります。というわけで何年か前からリーディングの仕事ではできれば小説をとお願いし、日々英語圏の小説を読んで、面白い作品を探しています。よい作品はいくらでもありますが、自分にぴったりくる作品にはなかなか出会えません。出会うまで、これからも読み続けます。

注記)ジャンルは決められなくても、苦手なジャンルははっきりしていて、バイオレンスとロマンスにはあまり興味が湧きません。


 

2020-09-09

移住願望:山の近くで暮らしたい

毎日、暑い。まだまだ暑い。

暑さと湿気に弱くて、夏が来るたびに移住を考える。標高1000mくらいの高原にある林の中で暮らしたい。庭には菜園があって、春が来れば野菜もつくる。あこがれの晴耕雨読の生活だ。


今はインターネットさえあれば、仕事はどこでだってできる。書店での買い物や図書館での調べ物は、生活必需品の買い出しのついでに麓の町で済ませればいい。


実は去年の5月に、ひとりで松本まで下見に行った。だいぶ前から夫を説得しているものの、なかなかうんと言わず、実力行使に出てみたら態度を変えるかもしれないと期待して。あの町は観光ですでに何度か訪れていて、何でも揃っていて便利で住みやすそうだ。上高地も近い。高校時代に長野に住みたくて、一時期、長野の大学を狙っていたくらいだ。しかし、ひとりで電車で出かけたので、松本駅からそう遠くない場所にある不動産屋さんを覗いただけで終わった。まずはアパートに引っ越して、それから定住先を探すのもありかと思う。物件の数はそれほど多くないが、選べなくはない。松本の隣の南松本駅近くには大きなマンションも建設中だった。


お父さんが松本出身だという友人は、あそこは冬、寒いよと脅すけど、大丈夫、昔、留学で2年暮らしたアメリカの街は、キャンパスにいながらダイヤモンドダストが舞う豪雪地帯だったけど、寒さはわりと平気だった。


残念ながら、松本から帰ってきたあと夫の不機嫌攻撃に遭って、移住プロジェクトは一旦中断。だけどまだ諦めないぞ。

2020-09-04

翻訳小説の棚が(これ以上)減ると困るので

都心や大きな街の大型書店ではそれなりに翻訳小説の品数を揃えているのでなかなか気づきませんが、近所の小さい書店や古書店では、翻訳小説の棚が少しずつ減っています。世間ではもうずいぶん前から出版不況に加えて、翻訳小説離れということが言われていましたが、フィクションの翻訳にかかわる機会が少なかったこともあって、自分の痛みとしてひしひしと感じることがありませんでした。あるいは出版不況の大きな流れの中でのできごとで、翻訳小説に限ったことではないと思っていたのかもしれません。

2012年夏、北海道の天売島に行ったときのこと、島からのフェリーがH町に着いたあと時間があったので本屋に立ち寄り、店内をざっと回って、翻訳小説を探しました。その店にあったのは、その年の6月に出たばかりの柴田元幸さんが訳されたマーク・トウェイン作『トム・ソーヤーの冒険』と松永美穂さんのベルンハルト・シュリンク作『朗読者』(どちらも文庫)の2冊だけでした。『トム・ソーヤーの冒険』はたまたまその旅に持っていき、読み終わったあと天売島の宿に置いてきた本と同じものでした(たまに、書棚がある宿に読み終わった本を置いてきます。邪魔だからではなく、読んでくれる人がいるかもと思って)。置いてきたばかりの本に再会した偶然に喜んだのも束の間、翻訳小説が2冊きりという光景は衝撃でした。その旅では新鮮な海鮮を味わい、幻想的なウトウの帰巣を見学し、楽しい思い出に浸っていたのに、一気に現実に引き戻され、浮かれた気分が一瞬で吹き飛んでしまうほどでした。


北の果ての小さい町とはいえ、フェリーの発着場があり、そこそこ人の往来もある土地です。出版社の営業さんも北海道まではそうそう来られないでしょうから仕方がないのかもしれませんが、翻訳小説は積極的に売らないとここまで求められなくなっているのだな、と実感し、悲しくなり、その気持ちを静めるために、未読だった『朗読者』を購入しました。


翻訳小説はもともと月に何冊か読んではいましたが、あのときのことがショックで、それ以来、翻訳小説はできるだけリアル書店で買うようにしています。私が購入できる数などたかが知れていて、荒波に向かって犬かきするようなものだとしても、何もしないよりはましと自分に言い聞かせて。これまで半世紀のあいだ私の人生を豊かにしてくれた翻訳小説がもっと読まれてほしい。あれから8年、状況はますます厳しくなっているように感じますが、ささやかな応援をこれからも続けます。