2021-11-04

山梨ヌーボー、解禁

113日、山梨ワインの新酒解禁日に勝沼ぶどうの丘で試飲を楽しんできました。

お天気もよく、勝沼駅からぶどうの丘まで20分ほど、なだらかな起伏のある道をハイキング。


10時過ぎに着いたときにはまだテラス席があいていましたが、お昼頃にはかなりの混雑ぶりでした。


200円でグラスを借りて、返却するときに100円戻ってくるシステム。ワインを少量ずつ3種類試飲しました。爽やかなぶどうの香りが際立った新酒を景色のいいテラスで楽しめるしあわせ。


しだいに混んできたので、売店で白1本とぶどうのお菓子を買って、ぶどうの丘を出ました。帰りも歩き。行きに駅から歩く途中で見つけた縁側茶房というカフェでお昼をいただきました。ここでもおいしい白の新酒とともにぶどうの生ハム包みやぶどうのピザなど、勝沼ならではの料理をいただき、ぶどうずくしの秋の1日を堪能しました。





















2021-10-26

セシリア・アハーンと加賀雅子さん

編集プロダクション、オフィス・カガの加賀雅子さんと初めてお会いしたのは、ネットで翻訳者募集の広告を見つけて応募した、2002年頃のことです。

加賀さんには一般向けノンフィクションの翻訳をしたいとお伝えし、リーディングの仕事を11件受けたあと、ノンフィクションではなく、アイルランドの若手作家セシリア・アハーンのデビュー長編P.S. I Love You(邦題『P.S.アイラヴユー』)の一部下訳の仕事が舞い込みました。下訳を担当されていた方が途中で仕事をおりられたので、引き継いでくれる人を探しているとのことでした。その方がひととおり翻訳を終えたあとで大幅に修正した英文原稿が届いたので、新旧の原稿を付け合わせて変更箇所を洗い出し、カットされた箇所を削り、新規箇所を訳してほしいという依頼でした。それ以前からアイルランド音楽にはまっていて、アイルランドという国に興味もあったので、喜んでこの仕事をお受けしました。この新規箇所の翻訳を加賀さんが気に入ってくださり、今度は小学館がつぎに出すアハーン作品を選ぶ際のリーディングの仕事をお受けしました。このときは3作品同時に検討されたそうで、わたしが担当したのはアハーンの第2作Where Rainbows Endでした。

このレジュメが通り、『愛は虹の向こうに』を訳すことになります。大学では英文学を学んだものの、小説の翻訳は翻訳講座の課題のほか、実戦ではハーレクインを3点訳しただけのフィクション初心者、しかも300ページ超えの作品にしては締切がきつかったので、できはよくなかったと思います。そのせいもあってか、翻訳原稿をお読みになった編集者が、この作品が手紙やメールやチャットばかりで構成された書簡体だということに改めて気づかれて出版を躊躇され(書簡体だということはレジュメにはもちろん明記しましたが)、訳稿はしばらく寝かされていました。その時間を翻訳に当てられたらもっと推敲できたのにと悔しい思いをしました。結局、邦訳は1年後に無事出版されました。

作品の発表から10年後にはLove, Rosieというタイトルで映画化され、『あと1センチの恋』として日本で公開されたときは、いそいそと映画館に見に行きました。リリー・コリンズの好演もあって映画は好評でしたが、作品の要所の設定が原作と違っていたことと、舞台がアイルランドではなくイギリスに移っていたことは少し残念でした。映画化に際してよくあることなのでしょうが。

加賀さんがアハーン作品のシリーズ化にご熱心で、その後も強く推してくださり、下の写真の3冊を訳しました。フィクション翻訳初心者に著名な作家の作品を翻訳する機会を与えてくださり、身に余る光栄でした。

セシリア・アハーンに関しては、コミカルな人情物が得意で、弱者に対する視線があたたかく、人間味があふれているのが持ち味ですが、たびたび脱線して収拾がつかなくなる傾向があり、本国での特別扱いとも思える原作に対する高い評価は正直なとこ長い間、疑問でした。最近になってアイルランドの近代史を読み、セシリアの父親バーティ・アハーンがアイルランド首相に在任中、南北アイルランドの和平に陰で尽力したことを知りました。ほかの政治家2人にノーベル平和賞が贈られるほどの歴史的大事件でしたから、当時の首相のお嬢さんが執筆したデビュー作が国内外で大絶賛されたのも頷けます。

なぜ急にセシリア・アハーンのことを書いているかというと、先日久しぶりに加賀さんにご連絡しようとして、長らく使っていらしたメールアドレスにメールが届かず、葉書をお送りしたところ、そちらも返送されてきたからです。年初には年賀状をいただいており、その後どうされているのか気になっています。



















2021-10-14

引っ越しました

29年暮らした東京を離れました。

山の見える土地で暮らしたいという願望が年々強くなり、毎日山を間近に眺められる甲府に来ました。子供の頃、病気がちだったのですが、5歳のときに旅行で乗鞍高原に行って、バスを降りるなり高原の澄んだ空気を吸って元気がみなぎったときの爽快感が忘れられず。それと、毎日西の山に夕日が沈む風景を見て育ったので、東京の変化の少ない風景をちょっと味気なく感じていました。最初は松本を検討していたのですが、来年夫が完全リタイアするまでは月に数回東京に出社することになるため、隣の県に住むことにしました。


若い頃から引っ越し魔で、実家以外に住んだ家・アパート・マンションは通算16箇所目です。今回の引っ越しで体力の衰えを痛感したので、これが最後の引っ越しになりそうです。


甲府は桃や葡萄にワインにほうとう、おいしい食べ物がいろいろとあるし、暮らしやすい街です。


JRの駅の近くに立派な図書館があるのもうれしい。調べ物などでたびたびお世話になると思います。


年のせいと諦めていた気力体力が少し戻ってきて、ここに来れてよかったです。



2021-06-01

重版のお知らせ

第4刷。
『選択しないという選択』

選択しないという選択 ビッグデータで変わる「自由」のかたち』(キャス・サンスティーン著、伊達尚美訳、勁草書房)


2021-04-15

20代はほぼ翻訳一色でした

大学卒業2年後に翻訳会社に転職

高校時代に翻訳という仕事に興味を持ち、大学では英文学を学び、貿易会社に就職して2年働いたあと、念願の翻訳会社に転職しました。入社1年めは、ワープロオペレーター(英文専用ワープロを使って、翻訳に入った赤字修正を入力したり、英語の取説等をレイアウトしたり)として働き、そののち、翻訳部に移って社外翻訳者のコーディネーターを務めながら機械分野(車関係)を中心とする英文和訳の仕事を兼務しました。この間、英和自動翻訳システムの開発に乗り出していた大手企業2社の外部要員として先方に出向して初期のシステムを評価するという得がたい経験をしました。勤め先の社長が自動翻訳システムにおおいに期待していたからです。残業の多いきつい職場でしたが、社員同士の結束は固く今でも付き合いがあり、翻訳の基礎も学ばせてもらい、この会社には恩を感じています。

ここに5年勤めたあと独立し、フリーランスとして実家で英和実務翻訳の仕事を請け負うようになります。仕事は最初から比較的順調でした。トライアルは1、2社を除いてすべて合格、そのうちの数社から途切れることなく仕事をいただきました。バブルとは無縁な地味な生活を送っていたので気づきませんでしたが、これもバブルの恩恵だったのでしょう。ジャンルは多種多様でしたが、通信分野の仕様書の和訳はかなり大量にこなしました。知人の紹介でギターやゴルフ雑誌の記事の下訳も経験しました。

この頃に一度著名人の伝記本を下訳する機会がありました。そもそも本を訳したくて翻訳を志したこともあり、普段以上に気合いを入れて取り組みましたが、かなり苦戦しました。分担訳でたいして分量はなかったものの、凝った表現をうまく日本語にできず、実務翻訳とはまったく要領が違い、時間もかかりました。実務翻訳には実務翻訳の難しさがありますが、当時、受注していた書類は、契約書を除けば大方わかりやすいシンプルな文体で書かれていたので、英語の読解や日本語の表現で悩むことは少なかったのです。翻訳会社勤務時代、4カ月休みをいただいて、ニューヨーク州イサカにある大学の英語集中講座で学び、受講終了時点でTOEFLの成績600点を超えていましたが、翻訳に使える英語力にはほど遠かったようです。

大学院留学を目指す

この経験から、もっと英語力をつけなければという思いが強くなり、今度は大学院留学を考えはじめました。さいわい貯金も少し貯まっていました。出版翻訳を目指すなら文学を専攻すればよかったのですが、なにせ当時の生活圏だった東海地方には出版翻訳の仕事をしている知人がひとりもおらず、雑誌『翻訳の世界』だけが唯一の情報源、じかにお話をうかがえた文芸翻訳家は、もう亡くなられましたが、講演を聴きに行った常盤新平さんただ一人。常盤先生にお礼状を出したところはがきでお返事をくださっていたく感激したものの(面識がないにもかかわらずお返事をくださったのは、今思えばわたしの旧姓のおかげ)、果たして本当に本を翻訳できるようになるのか皆目見当がつかず、英語を専門にしている方に相談してみても、あまり参考になる答えは返ってきませんでした。

出版翻訳者になれなかった場合、教職は向かないとわかっていたので、専攻対象から文学は外れ、まだ就職口が見つかりそうなコミュニケーション学部で学ぼうと決めて、1991年9月から2年間、ニューヨーク州シラキュースで暮らし、パブリック・コミュニケーションを教えているシラキュース大学ニューハウス校の広報学科修士課程に籍を置きました。実用的な技能教育指向のカリキュラムで、理論のほかに市場調査やニュースライティング、PCを使ったグラフィックデザイン(DTP)などの授業があり、クラスにはすでに新聞記者として働いた経験のある学生もいて、おおいに刺激を受け、鍛えられました。当時は授業についていくのに必死で、友達つくる余裕もありませんでしたが。

翻訳者になるのに留学は必要ないということをよく耳にします。留学せずに活躍している素晴らしい翻訳家はたくさんいらっしゃいますし、日本にいても翻訳に必要な英語力は鍛えられるはずです。わたしの場合、不足する英語力を鍛える方法として、ほかに選択肢が思い浮かばなかったに過ぎません。わたしが通っていた名古屋の大学では毎年学生を何人か海外に送り出していて仲のよかった友人が留学していたし、当時、周囲で英語を使って活躍している女性の多くが海外で学んでいて、留学が比較的身近だったことも影響しています。東京の翻訳学校の名古屋校ができたとき、喜び勇んで飛びこんだ教室で出版翻訳を習ったのは、アメリカに留学されたのち日本の大学で英語を教えていた方でした。また、イサカ時代、日本人女性のお宅に居候させていただいたのですが、その方はアメリカで博士号をとられ、同時通訳として第一線で活躍していらっしゃいました。名古屋の学校でその方の通訳の授業を一期受けたことがあり、その後たまたま翻訳会社で再会しただけのご縁でしたが、親切にしていただき、その間いろんなことを教わりました。

今は海外に出るのが容易ではない状況ですし、誰もが留学したいわけでも、できるわけでもありません。あの頃の自分に、留学せずに英語力を伸ばす方法を教えるとしたら、もっとせっせと英語を読みなさいとアドバイスするでしょう。留学前から英文雑誌を購読したり、たまにJapan TImesを読んだりしていましたが、原書はまだそれほど読んでいませんでした。そもそも原書を買える場所が当時はまだ限られていたのです。原書を読むのは体力がいりますから、ついでに体も鍛えなさいと。体力のある若いうちに自分のレベルに合った英語を少しでも多く読むのが、遠回りでも確実な英語上達な方法だと、今頃ようやく実感しています。

2021-04-03

おくのほそ道

古典から現代の作品まで、隙間時間に気の向くまま和書を音読したり筆写したりしていて、今は「おくのほそ道」です。「古池や蛙飛びこむ水の音」「閑さや岩にしみ入る蝉の声」「夏草や兵どもが夢の跡」「五月雨をあつめてはやし最上川」くらいはそれこそ何十回も耳にも目にもしているのに、それ以外の句はほとんど知らないのだと気づきました。旅はまだ始まったばかり。

2021-03-24

本日の小確幸

翻訳に半年ほどかかった本の第1版第1刷第2回の支払い通知が、刊行から2年半たってようやく届きました。初回は保証された初版部数の一部のみ印刷して、残りは一定部数が売れてから印刷するという、無駄を出さないための版元独自の仕組みのようです。担当編集者さん、この本は売れますから、と、私の記憶が正しければ、たしか二度もおっしゃったし、この本の重要性を考えるともっと売れてほしいのですが、とりあえず最初の印刷分が大方はけたということで、当初お約束いただいた初版部数にようやく達したのが嬉しいです。しかも今回、印税率が初回より0.5%上がっていて、大変な状況のなかで配慮してくださったのだと思うと、しみじみとありがたいです。本を買って読んでくださった皆様、好意的な評を書いてくださった皆様のおかげです。ありがとうございます。

ここで、契約書を交わしているのに、事前に連絡もなく突然支払い条件が変わるのはありなのかという疑問は残りますが。そういえば電子書籍の印税も、契約書に記載されている数字より2%多くいただいてます。たとえ連絡はなくとも、もちろん上げていただく分にはぜんぜんかまいません。ちょっと寂しかっただけで。

Kindle版もまもなく発売予定。


#リパブリック: インターネットは民主主義になにをもたらすのか




2021-03-16

企画の持込を成功させるには

出版社やエージェントから原書読みを依頼されて書いたレジュメの数に比べれば、自分で原書を探してレジュメを書き、出版社に持ち込むところまでたどり着いた回数は数えるほど、おまけに持ち込んだ企画が通ったことはまだありません。経験不足故、持込に関して私に語れることはたいしてありません。代わりに経験豊富な先輩方に伺ったり、読んだりした内容をまとめると、一度断られたくらいで諦めたりせず、しぶとく粘って興味を持ってくださるところが見つかるまで何度でも挑戦するのが成功の秘訣のようです。企画のストックが何本もあるとおっしゃる先生もいらっしゃいました。仕事をひとつ確保するために繰り返し売り込むなんて大変だ。でもそれしか方法がないなら、やるしかありません。以前は、二度断られて理由が納得できるものなら、あっさり諦めていましたが、先輩方の経験談を伺って以来、関連資料は捨てずにとっておくようにしています。そういえば2社に断られて諦めた本が別の出版社から出たこともありましたっけ。翻訳者としてかかわれなかったのは悔しいですが、無事邦訳が出て、好評なのが救いです。幸運な出会いがいつどこで待ち構えているかわかりませんから、希望を捨ててはいけませんね。


私など、年齢的には高齢者の仲間入りをしていても、出版翻訳の世界ではまだまだ経験が浅く、当のジャンルを担当されている編集者のお名前を問い合わせ、レジュメをお送りするのがやっと。送り先が以前からお付き合いのある方だったり、優しい方だったりすれば、企画が通らなかった理由を添えてお返事をくださるので、では別の出版社に、と前に進めるのですが、超多忙な編集者がお返事をくださることは稀で、レジュメを送っても梨のつぶてということも多く、お忙しいのにたびたびお邪魔をするのも気が引けて、企画を気に入っていただけたかどうか問い合わせるだけの勇気を振り絞るのに時間がかかり、いつの間にか長い月日が経過していたことも。


ですが、何もせずに何カ月も待ち続けるのは考えものだと気づきました。一度、こんなことがありました。レジュメをお送りしたあとで、たまたまご本人にお会いする機会があり、「社内に興味を持っている者がいる」と伺ったので、大いに期待してまだかまだかと返事を待っていたら、いつの間にか別の出版社から邦訳が出ていたのです。このときはさすがにがっくりきたので、その後は1、2カ月待ってお返事がない場合は「いったん取り下げます」とお伝えすることにしています。すぐにお返事がないということは、1)企画にご興味がないか、2)お忙しすぎてまだ目を通していただいていないか、3)忘れられたかでしょうから、3)の場合に備え、さりげない催促もかねてご連絡することにしました。せっかく書いたレジュメを無駄にしないためには、今のところこれが最善の策じゃないかと思います。


と書いてはみたものの、失敗が続いたせいか、年のせいか、ひところほど原書探しに身が入らなくていけません。以前はずいぶん厚いノンフィクションのレジュメを書くほど燃えていたのに。原書の探し方も含めて、いろいろと見直しが必要なのかもしれません。

2021-03-14

断捨離その1:古い手紙や写真は老後の慰めになるのか

将来的には高齢者施設や長期療養施設への転居があるかもしれませんが、それを別にすれば、おそらくこれで最後になりそうな転居の予定が急浮上。9月に書いたブログ記事「移住願望:山の近くで暮らしたい」が現実となり、しばらくしたら今度は隣の県に引っ越して、かなり山に近づける見込みと相成りました。願望は願望として、実現は難しいと思っていたので、予想外の展開に驚いていますが、そうと決まったら、かなり本気で断捨離に取り組まないとなりません

結構かさばるのが手紙や写真で、縁遠い方のものから片付けているのですが、取捨選択が難しい。私がアメリカに留学していた1988年(一度目、第二言語としての英語集中講座受講)から9193年(二度目、大学院修士課程)にかけてはインターネットもそれほど普及していなかったため、日本の知人や家族、アメリカで知り合った友人・知人とのあいだでやりとりした手紙やクリスマスカードがかなりの数になりました。留学は私にとって思い出深い特別な経験だっただけになかなか捨てられず、あとで整理するつもりでまとめて箱にしまってあります。読まずに捨てて後悔したくないので、ひととおり読み返すのですが、すっかり忘れていた記憶があれこれ蘇ってきたりして、なおさら捨てがたくなることもしばしば。まずは文面の短いカードや絵はがき類からとりかかりました。


一度目の留学時はクラスの半分が日本人という、留学した意味に疑問が生じるような特殊な環境で、しかも短期だったので、手紙の数もしれていますが、二度目は学科の同期に日本人はおらず、アメリカ人の級友や他国からの留学生と親しくなれるほどの英語力もなく、学業のストレスで参ってもいて、その寂しさを手紙で埋めていたんでしょうね。あの頃は自分でも感心するほど筆まめでした。私との文通に付き合って、孤独な留学生活を乗り切る心の支えとなってくださった方たちには心から感謝しています。


断捨離していて気になるのは、今より年をとったときに、昔の写真を眺めたり、手紙を読んだりして、はたして慰められるものなのかということ。そういう年齢に実際に達してみないうちは想像するのが難しく、あれもこれも、もう必要ないだろう、と捨てかけては、いやちょっと待て、と思い留まったりしています。これは人生の先輩方にぜひ伺ってみたいところ。

2021-03-07

説得力のあるレジュメを書きたい

少し前まで、翻訳学校に通っていたときの先生からリーディングの仕事をいただいていたのですが、そのうち3点の邦訳が別の版元からつぎつぎと出版されていて(いずれもベストセラーだとか、有名な賞をとっただとか、といった話題作ではなく)、先生の作品を選ぶ目の確かさに改めてうならされるとともに、私のレジュメで企画が通らないということは、読み方・書き方に問題があるのかもと落胆しています。


レジュメがきちんと書けているかどうかを自分で判断するのは難しく、リーディングの講座を受講して、レジュメを客観的に評価してもらった感触では、それほど大きく的を外してはいないと感じたのですが、よい作品でも企画が通らないことが続いている以上、きちんと書けていないと考えざるを得ません。「作品のよいところだけでなく悪いところも指摘するのがよいレジュメ」という注意を鵜呑みにして、悪いところをバカ正直に書きすぎるのかもしれません。いいと思ったら少々の欠点には目をつむって全力で推すくらいで、説得力のあるレジュメを書くように心がけます。

2021-03-03

洋書案内5:The Secret Lake - 庭にあるトンネルを抜けると、そこは過去だった

The Secret Lake

【原題】The Secret Lake
【仮題】秘密の湖
【作者】Karen Inglis
【出版社】Well Said Press
【刊行時期】2011年
【著作権】著者
【ページ数】ペーパーバック122ページ
【ジャンル】児童文学/タイムトラベル(対象:8-11歳)



作者について

Karen Inglis

2人の息子がまだ幼い頃、子供たちのために物語の創作を始めた。息子たちが成長したあと、2010年に昔書いた物語を出版したのを手始めに、児童書を8点出版。本作は発売部数20万部を超えた。ロンドン在住。

あらすじ

トムは行方不明になった近所の犬ハリーを見つけようと広い庭を捜していて、深い穴を見つける。姉のステラとともに穴をどんどん下りていくと、そのトンネルは過去に通じていた。2人は昔その庭にあった屋敷に住む少女エマや使用人の息子ジャックと仲良くなり、スマホを使ってジャックを窮地から救う。現在に戻ってきたトムとステラは、彼らが暮らす家の大家のおばあさんが、穴の向こうで出会った少女と同一人物だと気づいて驚く。

解説

冒険の楽しさ、トムとステラが過去に戻ったときに仲良くなったエマやジャックとの友情物語、ジャックが泥棒の疑いをかけられた事件を見事に解決するトムとステラの奮闘、エマとハリーの時を超えた愛情物語がどれも面白くて、楽しくすいすい読めました。いくつか矛盾点はありますが、話がコンパクトにまとまっており、テンポよく進むので、ほとんど気になりません。フィリッパ・ピアス作『トムは真夜中の庭で』の現代版。

2021-02-16

洋書案内4:When All is Said - 老人が因縁のホテルのバーで人生を振り返る



アイルランドのミースで小作人の家に生まれたモーリスは、家族をこき使った地主のドラード家の人々、中でも自分に暴力をふるった長男に復讐するため、落ちぶれた一家が切り売りする土地を少しずつ買い集め、ドラード家が観光業に生き残りをかけて、屋敷を改装して開業したホテルの経営にかかわる権利さえも手に入れる。


一方で、資金が尽きたドラード家のために、ホテルの経営を裏で支える。ところが、モーリスのひとり息子のケヴィンは彼苦労して手に入れた土地に興味を示さず、農場を継がずにアメリカに渡る。愛する妻にも先立たれてひとりきりになり、妻の二回目の命日に、因縁のホテルのバーで人生を振り返る。


妻が死んでからは新しい人間関係を築くのも億劫で、酒の力を借りながら、妻の面影を偲んで日々を送ってきた。もう体の自由も利かなくなり、いよいよ最期のときが迫っていることを知ったモーリスは、人生に彩りを添えてくれたかけがえのない家族のために5度祝杯をあげる。そして最後にホテルの部屋でみずから命を絶つ。


両親が土地を持たなかったせいで大変な苦労を強いられて、土地に固執し、ついに大地主になったモーリスをあっさり見捨てる息子。土地がなくても才能で世の中を渡っていける時代になったことは素晴らしいけれど、息子という生きがい、希望を失ったあとのモーリスは哀れ。


アイルランドで評判となり、2019年のYear Irish Book Awardsの新人賞を受賞、2021年にはDublin Literary Awardの候補にもなり、20カ国語に翻訳されています。アン・グリフィンのデビュー作で、4月に第2作Listening Stillが出ます。


アイルランド、復讐がテーマの作品の人気が高いように見受けられるのは、苦難の歴史に理由があるのでしょうね。



2021-01-09

移住案が現実味を帯びてきた

何年か前からちょっとした体の不調が続いているのですが、去年、家の中と玄関前で3回階段を踏み外し(長距離歩けるだけの筋力はあるのに、一瞬脚に力が入らなくなる感じでした。脳の誤作動でしょうか)、夏のはじめには円形脱毛症が見つかり、これはちょっとまずいぞと感じてはいました。

2020年はGW明けに翻訳を終えた本が6月に出版されて以降、リーディングの依頼さえなく、例年なら次の仕事につながることを期待して営業したり原書探しをしたりするのですが、机に向かってもやる気が起きず、ますますやばい、ちょっと東京を離れたほうがいいかもしれないと思い始めました。

家人もまもなく長年勤めた会社を完全リタイアすることだし、以前から考えていた移住をそろそろ実行に移そうかと、10月のお天気の日曜日にふらりと甲府を訪ね、駅そばの不動産屋で紹介された部屋が気に入って、さっさと話を進めました。

家人も甲府のまちを歩いてみて、暮らしやすそうだし東京にも近いしと、急に興味を持ち始めました。それまで移住には消極的で、松本を検討していたときは全く興味を示さなかったので、よほど甲府が気に入ったようです。私も駅前の立派な県立図書館をはじめとして、推しポイントがいくつもあり、このままここに定住し、死んだらどこか富士山の見えるお墓に入れてもらいたい、とさえ思っています。

まずは冬の寒さがどんなものか、ただいま体感中、なるほど盆地特有の気候で、一日の寒暖差が大きく、晴れていれば昼間は気温が上がるものの、夜はグッと冷え込みます。けれど、体質的に、東京の夏の蒸し暑さと比べれば寒さの方が凌ぎやすいと感じます。

夏の暑さも厳しいと聞きますが、東京や生まれ育った故郷の蒸し暑さと比べたら、過ごしやすそうです。

今は感染症が広まって、移動しずらい状況ですが、たまに東京との間を行き来しながら、長期的な移住に向けて、準備を進めているところです。